旧 清泉拝中 Old School Band
昭島市の市立中学校の沿革と私のふるさと「昭島」
東京都昭島市役所のホームページ https://www.city.akishima.lg.jp/
東京都昭島市立清泉中学校のホームページ https://www.city.akishima.ed.jp/~seisen/
はじめにをお読みになる前に
皆さんは、東京都の中央に位置する昭島市をどのようにお思いですか ?
好きですか ? 嫌いでしょうか ? 、もしかしたら食べず嫌い、消化不良・・・・・。
どうでしょう ? 昭島市の街中(まちなか)を舞台にした歌があるとして、それも、あのハイセンスなユーミン(松任谷由実)が3曲も書いているとしたら、少し驚きませんか ?
名曲「雨のステーション」は、JR青梅線西立川駅が舞台です。
アルバム『紅雀』に収められている「LAUNDRY-GATEの想い出」は、東中神周辺の旧・米軍立川基地がモチーフされてます。
そして「哀しみのルート16」は、ズバリ国道16号がテーマです。
昭島市は、ユーミンにとって大変情景豊かな街だったんですね。
どうです「昭島市」を見直されましたか・・・・・。
はじめに
今、私たちが享受している豊かな生活は、突然!! 目の前に現れた訳でありません。
古くからの多くの人々が、飢餓・戦争・災害・疫病等に打ち勝って生き抜き、今に繋いだ「営み」がもとになって成り立っていると思うのです。
「命」にも同じ様に「人生を遂げた多くの人々の祈り」が込められてると思います。
そこには、至るまでの犠牲と言う言葉を思い浮かべてしまいますが、古人(故人)たちにとっては、犠牲ではなく「希望」と言う言葉だったのではないでしょうか。
自分に命が受け継がれるまでに、途方もない時間と多くの人々が関わったことを私たちは決して忘れてはなりません。
自分の命は、自分だけのものではないと誰もが思うからです。
1 東京都昭島市の市立中学校の歴史
2020年現在、東京都昭島市には、昭和中(356)、福島中(244)、瑞雲中(463)、清泉中(562)、多摩辺中(292)、拝島中(587)と6校の市立中学校があります。【※ ()内は、現在の生徒数】
しかし、私たちが小学生の昭和45年当時は、「昭中」と「拝中」、そして「清泉中」の3校しかありませんでした。
私たちの母校「清泉中」は、昭和36年4月1日、現在の東京都昭島市宮沢町1-9-1に開校しました。
開校から10年後、私たち「昭島 清泉 Live For Today」のバンドメンバーは、第10期生として学びの窓に入学しました。
当時は、光華小学校、中神小学校、富士見小学校(一部)、成麟小学校の生徒が入学していました。
私たちバンド・メンバーの小学校出身者別を見てみるとリズム・ギター担当の山ちゃんが中神小学校の出身で、その他のメンバーは光華小学校の出身です。
昭中と拝中は昭和22年開校と古く、その14年後に昭島市3番目の市立中学校として私たちの母校は開校しました。
昭中と拝中の両校が開校した昭和22年には、大きな事故が多摩川で起きました。
その年の7月14日、横田基地に着陸しようとした米軍機が、エンジン故障で墜落し拝島鉄橋を通過中の八高線の最後尾に接触、列車1両が多摩川に落下し4名が死亡する悲惨な事故が起きました。
また清泉中開校の昭和36年は、拝島鉄橋の下流36mの河原から、くじら祭りの起源となる「アキシマクジラの化石」が発見されました。
昭中・拝中、清泉中が開校した年は、なぜか多摩川橋梁(拝島鉄橋)との縁があるようです。
昭島市の過去の人口の推移についてお話しします。
昭和29年の人口は3万6482人、昭和35年は4万5481人であり、このわずか6年の間に約1万人増の人口変動がありました。
この状況をおし計って清泉中が設けられたようです。
私たちが中学生時代を過ごした昭和45年(7万6174)人から昭和48年(8万0664人)までの3年間もまた急激な人口増加がありました。
令和2年3月現在、昭島市の人口は、11万3466人に及んでいます。
2 郷土「昭島」の歴史をもう一度おさらいしましょう!!
「アキシマクジラ」から始まる我が郷土「昭島市」には、どの様にして人々が居住するようになったのでしょう?
武家政治の始まりとなった鎌倉幕府が、関東平野に広がる広大な武蔵野台地の開墾を推し進めた結果、しだいに現在の昭島市周辺、特に多摩川べりに集落が形成されました。
① 武蔵七党
御家人として認められた横山党(八王子市)、猪俣党(児玉郡美里町)、児玉党(本庄市児玉郡)、村山党(多摩郡村山郷)、野与党(加須市野与庄)、丹党(丹治党)(入間郡・秩父郡・児玉郡)、西党・西野党/立川氏(日野市・立川市)、綴党(横浜市都筑区)、私市党/熊谷氏(加須市騎西)らが「武蔵七党」と呼ばれて活躍し勢力を拡大していきます。
② 三田氏、大石氏の活躍
もともとは勝沼に勢力を張っていた「三田氏」が、室町期には羽村から青梅一帯を治め、平将門の後裔と名乗り、関東管領職「山内上杉氏」に属し活躍しました。
戦国武将の「武田信玄」や「上杉謙信」が活躍した戦国時代には、高月城主「大石定重」が多摩川の対岸に滝山城を築きこの一帯を治めました。
これにより拝島周辺は、城下町のような活況を呈したと伝えられています。
③ 後北条氏と共に
その後、小田原北条家の北条氏照の庇護のもと郷土「昭島」は栄えていきます。
北条氏照は、後北条家三代目氏康の二男で、十六歳の初陣から、一生を通じて勝戦36回と言われた勇将でした。
また、学問詩歌を修め多摩の名僧「卜山舜悦」に参禅して禅機を会得し、また政治的手腕にもすぐれ、父氏康に劣らぬ文武両道に秀でた人物でした。
天文15年(1546年)に大石定久の養子となり氏照は滝山城主として後北条氏領国の西北守備を担いました。この時、まだ25歳の若武者でした。
前述の三田氏は、北条氏照が率いる小田原北条家の軍団に攻撃されて滅亡します。
④ 武田信玄からの攻撃
滅亡した三田氏が、勝沼をもともとの所領としていたことから、勝沼も後北条氏の所領と主張することに反旗を持ち、永禄13年(1569年)、甲斐の武田信玄が小田原攻略の途中に拝島大師に陣を張り、兵2万の大軍で滝山城を囲んで二の丸まで攻め寄せましたが、城主氏照を中心に城方もよく耐え守り抜きました。
しかし、この戦闘の後、氏照は武田に備える戦略上の利点から新しく八王子城を築き、天正14年(1586年)ころに、その居城を八王子城に移しました。
④ 後北条氏の滅亡
八王子城は、天下統一を進める豊臣秀吉の小田原征伐の一環として天正18年6月23日(1590年7月24日)、豊臣の軍勢上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの軍団1万5千人に攻められますした。
当時、城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけ、八王子城内には城代「横地監物吉信」らのほか領内から動員した農民を加えて約3000人が立て籠りましたが、無残にも落城、小田原城に立て籠もった氏照も自刀し果てました。
⑤ 江戸時代(村の発展)
江戸時代に入ると日光東照宮へと続く日光街道の環状道路上に拝島が位置したことから宿場町として栄えます。
江戸時代から明治初期にかけては、「昭島」の東方から郷地村、福島村、築地村、中神村、宮沢村、大神村、上川原村、田中村、拝島村の9か村が設けられていきました。
過去、多摩川の洪水は大変ひどく、文化8年(1811年)には、築地村の全てが流失するという大災害を起こします。
上川原村は、もともと多摩川べりの川原地域に居住する人々が、度重なる洪水を避けようと高台に移住した事から、川原の上と言う意味を込めて「上川原村」と名称したそうです。
明治4年の廃藩置県においてこの9か村は、神奈川県の管轄下となりますが、その後いくつかの変遷を経て明治26年に神奈川県から東京府に編入され、その9年後の明治35年に拝島村が独立しました。
明治・大正を経た昭和3年に8か村が合併し昭和村ができ、生糸や織物産業の隆盛を背景に「昭島」一帯は桑園化し全国屈指の養蚕村として栄えました。
昭和29年5月1日、拝島村と昭和町(旧・昭和村)が合併し「昭島市」が発足(「昭」和+拝「島」の合成地名)しました。
3 鉄道とのかかわり
昭島市内にはその昔、現在の青梅線、五日市線、八高線、西武新宿線の他に五日市鉄道立川延長線、多摩川砂利木材鉄道 西尾組砂利軌道、五日市鉄道拝島支線、中神引込線が引かれていましたが、いずれの鉄道も今は廃線となってます。
この鉄道の話は、昭島市一帯が桑園化し全国屈指の養蚕村であった事と立川基地と横田基地に挟まれた地域的要因等が含まれており、掘り下げると面白い話がたくさん出てきます。
少しそのヒントをご案内しましょう。
①「ゴテツ」と言う言葉をご存知でしょうか?
「ゴテツ」とは、旧五日市鉄道(立川~拝島延長戦)の略称で「五鉄」の事を指します。
大正14年4月に五日市鉄道の拝島~五日市駅間が開通、昭和5年7月、南武鉄道と五日市鉄道を立川駅でつなぐ拝島~立川駅間が開通し「南武鉄道五日市線」と改称しました。
この鉄道連絡網の背景には、暗い戦争の影があります。
その後、国有化され「国有鉄道五日市線」と再び改称、7駅中3駅が廃止されました。
太平洋戦争の敗戦の色が濃くなった昭和19年10月(レイテ沖海戦)、立川~拝島駅間が廃線となりました。
翌昭和20年4月13日、立川市所在の陸軍航空工場に対して米軍の爆撃が行われます。
また八王子駅が中央線・横浜線・八高線の連絡駅となっていたために米軍は、八王子市そのものを「鉄道の重要都市」と位置づけ8月2日、大空襲(八王子大空襲)を行いれ周辺の鉄道網を破壊しました。
お話した内容は、ほんの一部でしかありませんが、この様に昭島市の鉄道には深い多くの話があります。
「ゴテツ・五鉄」の一部は、現在立川駅を連絡して中央線から青梅線へと直通で入る立川駅~西立川駅間に現存・活用されています。
そうです。あれが「ゴテツ・五鉄」です。
② 横田基地と拝島駅の関係についてお話します。
拝島駅は、JR貨物の貨物駅であり、専用線発着の貨物も取り扱っています。
西武拝島線のホームから北口広場を挟んだ反対側にJR貨物が管理する専用線「横田基地線」が基地内まで続いています。
1970年頃までは物資輸送用に使用されていたため横田基地の第5ゲート前まで延びていましたが、その後、航空燃料輸送のみとなったためレール半分ほどが撤去されました。
神奈川県下の鶴見貯油施設から鶴見線安善駅に専用線が接続しており、週に数回燃料輸送のため鶴見線安善駅から貨物列車が南武線~青梅線を経由して拝島駅まで運行しています。
この様に「電気機関車」により牽引されて来たタンク車は、拝島駅に到着すると「ディーゼル機関車」に交換牽引されて横田基地線を通り、横田基地内に入ります。
基地内にタンク車が入ると基地線周辺は、厳重警戒が引かれて慎重にゆっくりと走行が開始されます。
※ 基地の外の線路も横田基地の一部であるとの警告が表示されています。
この模様は、昭島清泉Live For Todayの「ロング・トレイン・ランニン/拝島駅版」に歌われていますので、ぜひお聴きになってみてください。
③ 戦後まもない青梅線の風景
太平洋戦争終戦後、旧日本陸軍立川飛行場の一帯は、駐留軍に接収され米軍立川基地に変わりました。(太宰治の小説斜陽に少々描写されています。)
旧日本陸軍航空工場施設も米軍立川基地に組み込まれ、その施設や建物の多くがそのまま利用されました。
前述の横田基地同様に立川基地への航空機燃料輸送には、中神駅からの引込線が使われました。
立川駅構内には、洋もく(外国産タバコ)を横流しする売人が横行し、乗客を待ち構えて売り付けていたので「国税のGメン」が張り込み摘発をしました。
また青梅線の車両は、米軍兵士らの勝手な慣習で、白人専用車両と黒人専用車両とに分かれてました。
誤って黒人の兵士が白人専用車両に飛び乗ると強制的に降車させられ暴行を受けたりしました。
当然、立川市内でも白人兵と黒人兵とではお酒を飲む店が異なり、立川市内では西立川駅により近い方に黒人兵士の集まる店が多かったようです。
お店などで事件を起こした黒人兵は、立川警察署の警察官の制止を振り切って、一目散に治外法権の米軍基地内へと逃げ込みました。
不運にも警察官に確保されると取調室内では手の施しようもないほど刑事に向かって大暴れするのですが、基地から駆け付けた大男のMPの姿を見るや否や先ほどまでのトラが嘘のように猫へと変瓢して静かになり大男のMPに小突き回わされながら立川基地へと連行されて行きました。
この当時の模様は、昭島清泉Live For Todayのオリジナル曲「国鉄青梅線ブルース」に歌われていますので、ぜひお聴きになってみてください。
外部リンク
「昭島消えた五つの鉄道」
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/Usr/1320715100/understand/1320715100400020.html
おわりに
私たちは、昭島市の中学校の卒業生が集い「音楽祭」が開催されたらと願ってます。
令和元年11月に昭島市所在の私立啓明学園の卒業生で結成されたバンドとのジョイント・コンサートを立川で開催しました。
「昭島市所在の中学校を卒業された方々で結成されたバンド」の皆さまが、当ホームページをご覧になられましたら、メインページ下記の「お問合せ」欄にご連絡いただきたく思います。
心よりお待ち申し上げております。